性を否定することは、生を否定すること
いつも有り難うございます。嶋立歩美です。
今日は、謝罪会見の映像をテレビで沢山見ましたね。
性に関する過ちを語るということは、とても一言では表せません。
私たちは生きていくこと、子孫を残そうという根元的な要求と、
性というものとを、いつしか切り離されてしまいましたが、
本来は生きることと性は切り離すことは出来ません。
今の婚姻制度も、
結婚した瞬間から、
一人の異性しか愛してはいけないという
かなり無理のある契約でもあります。
たった一人を愛せるか、
沢山の人に愛が溢れてしまうのか、
それは人それぞれなんじゃないですか?
と思います。
男性は、1日に作られる精子の数が5000万~1億程度と言われているのに、
その行き場はどうすればいいんでしょう。
その行き場を、あがらえない本能で求めてしまうことを、
どこまで咎められるのでしょうか。
(性犯罪を容認したいということではないですよ。
性を抑制するから、余計に暴走するんです)
私たちの命は、
「理屈ではない時間」
に作られています。
これは、確かですよね。
最近では試験管の中で生まれる命もあるのでしょうが、
それでも、受精する瞬間は人智を超えた働きです。
ですが、何故か人間は
性を理屈で型にはめようとします。
性は、本来とても尊いものだということから
ズレてしまってはいけません。
男性と女性、
陰と陽の境い目が、ふわっと溶けて
一つになるということは、
1000年も、2000年も、
もっともっと前から
とても、とても、
一番尊いことだと言われていたのです。
抑圧すればするほど、歪みます。
性を否定することは、
生を否定することだからです。
他者を受け入れ、
気付きが生まれ、
意識は広がっていく。
その尊い営みの中に、
私たちの命があるのだということ
忘れてはいけないことだと思います。
(嶋立歩美)
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